原発事故裁判 運転の資格あったのか

Last-modified: Sun, 18 Nov 2018 23:57:22 JST (2004d)
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(2018.11.10)
 福島第一原発事故をめぐる刑事裁判は、先月には、検察審査会の議決によって強制起訴された当時の東京電力幹部3人の被告人質問があり、来週にも証拠調べを終え、最終段階の論告と弁論に進む見通しだそうだ。

 政府機関の指摘や東電自身による計算で津波は予測できており、3人にも報告があり、対策を進めることがいったんは了承されたが、被告らの判断で先送りとなった――と、検察官役の弁護士は主張した。 しかし、被告らは真っ向から否定し、現場に最も近い立場にいた武藤元副社長は「先送りする権限は私にはなかった」と述べ、経営トップだった勝俣元会長は、津波対策について報告はなく「関心を持たなかった」と言い切ったそうだ。
 武藤元副社長は、先送りの権限はなかったかもしれないが、先送りを上申する義務を怠り、勝俣元会長は災害に関心を持って調査する義務を怠ったのではないか。

 被告の3人が出席したある会議で、目次に津波対策と明記した資料が配られていたのに、3人とも目にした記憶はないというが、その時の議事録はどうなっているのか。 どこかの官僚でも同じような話があったが、すでに破棄または書き換えられているのだろうか。

 組織に問題があったとしても、誰も責任を取るものがいないというのは、欧米では理解できないことだろうが、日本ではよくあることだ。 背景の一つにそんな責任を取らされるほど、責任者は報酬を得ていないということもあるような気がする。 日本の社会は、大きな所得格差を許さない妬みの風土があり、代表取締役と言えども、欧米と比較して、それほど多額の報酬を得ているわけではないので、欧米並みに企業組織の責任を取らされても合わないという意識が彼らにあるのではないか。

 日本の社会では、責任に対して報酬を出すという習慣がなく、責任や権限と報酬とが対応していないケースが多々あったりし、報酬を払うときは格差論議をし、責任追及するときは責任者を徹底的に叩くという慣習があったり、大した責任もないのに、彼と同期だというだけで、同等レベルの報酬を要求するような輩がいたりしないだろうか。

 何でも欧米化すればよいというものでもないが、責任と権限と報酬のバランスが明確で、「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」などということもないような社会でありたいものだ。

朝日新聞 社説:「原発事故裁判 運転の資格あったのか