平成から令和 一人一人が時代を創る

Last-modified: Fri, 12 Apr 2019 23:27:57 JST (1843d)
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(2019.4.2)
 新天皇の即位まであと1カ月となったきのう、新たな元号が、これまで中国の古典を典拠としてきたが、初めて国書の「万葉集」から選ばれて「令和」に決まったそうだ。 中国の古典から典拠することがいけないとは思わないが、今まで中国の古典限定で選出していたとすれば寂しいかぎりであり、国書からの選定も良いのではと思う。

 皇位継承前の元号選定ということで、国民の多くが余興の一環として「新元号」の予測を行ったりしたのは新鮮味があったとも言えるが、「天皇陛下」の威厳の低下とともに「元号」の威厳も低下し、そのうちに、国民投票で選ばれる時代が来るのではと危惧した。

 「新元号」の選考過程は極秘にされ、「令和」については菅官房長官の発表まで、完全に極秘が順守されたが、「令和」以外の候補が24時間も絶たないうちにマスメディアなどに漏れ、誰が漏らしたのかは知らないが、秘密保持すら遵守できないレベルの低い者が一部、混じっていたようで、日本の国の危うさの一端を感じた。

 字画による姓名判断が信頼に値するのかどうかは知らないが、仮に、姓名表記によってその人の運命が影響を受けるとすれば、年号表記によっても日本の運命が影響されることになる。 外国人向けに西暦表記をすることには反対しないし、「新年号」を使用するか西暦を使用するかは各自の自由だと思うが、これらは、自分の姓名を外国人に分かるようにローマ字表記するか、漢字表記するかと同様の問題であり、姓名判断などの観点から言えば、多くの国民がいずれの表記をするかによって、その運命は微妙に影響を受けると想像される。

 外国人に分かるような表記の必要性は十分に理解するとしても、街中が英語表記やローマ字表記であふれ返り、漢字やかな表記がわきに追いやられるような時代は想像したくない。 外国からの観光客にしても、現地文化に触れることが楽しみの一つであり、グローバル化と観光は必ずしも一致しないものであり、日本固有の文化は文化として守っていきたい。
(「改元」を考える 時はだれのものなのか)

朝日新聞 社説:「平成から令和 一人一人が時代を創る